きのこの人工栽培の歴史は明らかではありませんが、日本のしいたけ
栽培は1600年代に豊後国(大分県)で始まったとも、伊豆地方
(静岡県)で始まったとも言われています。まだ、歴史が新しいえのき茸
の栽培においても明治の末期ごろに京都府下において柿の木を原木と
して栽培をしていたと言われています。西洋でも、1600年代には盛んに
マッシュルームの人工栽培が行われていましたので、400年位前から
きのこの人工栽培は手がけられていたことに成ります。
現在の栽培の主流であるびん栽培は、大正の終わりから昭和の始めに研究され現在の栽培の原点に成りました。第二次大戦中は統制経済となり栽培は中止されましたが、戦後まもなく栽培が再開され栽培者の数も50人未満だったと言われています。当時の長野県の農業高校の先生がえのき茸の種菌の培養に成功し、栽培希望者はその種菌を手に入れることが出来たので長野県がきのこ栽培の大産地に成ったと言われています。


長野県下の生産者は昭和37年には1200人を数えるように成りました。これに合わせるかのように省力裁培が研究され、現在の機械化の幕開けとなりました。特に、昭和40年には夏季栽培のための冷房施設も取り入れられ、その結果夏場のきのこと言うことで、えのき茸が100g250円と記録的な高値を呼び、えのき茸栽培に拍車をかけました。
当然のことのように栽培の施設化が進み、それと併せて規模拡大による企業化が進み専業栽培農家が各地に現れ始め、周年栽培としての大型農家群が生まれました。


昭和の初期、えのき茸の栽培が実用化された当時は薬剤の空びんなどを利用していました。このため口の大きさ、容量がそれぞれ違っていました。えのき茸の栽培が確立するように成ると、ガラスびんメーカーがこれに着目して各種サイズのびんを売り出し、当時10数種類が発売されたのでその選択に農家が迷ったと言われています。
ガラスびんは重く、破損し易いと言う欠点がありましたのでこれに代わる物の開発が望まれました。
その結果ポリプロピレン(PP)製の栽培びんが開発され(昭和40年代)、その後改良を重ね現在に
至っています。


現在の施設栽培型きのこの施設・資機材は別図のフローチャートに示した内容が主なものです。昭和30年代に1本詰めのびん詰機が開発され、前後して掻出機が開発されました。びん詰め作業は手作業で行われ接種穴も手で開けていました。その後に1本詰めびん詰機が、続いて2本詰めびん詰機が開発され機械化の幕開けとなって行きました。昭和50年前後に開発されたコンテナー単位で詰込み作業を行う12本・16本詰めびん詰機の基に成りました。現在の詰機の型式は、ピストン式振動式スクリュー式が主なものです。
各機種それぞれに特徴がありますから選定の際には十分に検討をする必要があります。昭和50年代の後半には詰機に空びんを送込む送込み機がセットされた自動びん詰機が開発され、また関連する機器としてオートキャッパーが開発されました。

掻出作業はびん詰作業と同様に手作業で行っていました。昭和30年代に開発された掻出機は現在の様なコンテナー単位の機械ではなく、びん1本1本を機械にかけて行う方式でした。平成5年頃には、送込み機と掻出しの済んだ空びんを積み上げる段積み機がセットになった自動掻出機が開発されました。掻出す方法により、羽根式と高圧のエアーによるエアー式があります。

ミキサーの構造は、主軸に攪拌用の螺旋を取り付けた所謂リボン式のものが一般的です。栽培規模に応じて大きさは各種作られてきましたが構造は変わっておりません。昭和40年代は2000本位の大きさのミキサーが大型と言われておりましたが、現在は10000本位の攪拌が出来る大きさのミキサーも使われる様に成っています。最近はオプションとしてミキサーに取り付ける装置として、自動給水装置自動駆動装置自動開閉装置栄養剤自動投入装置等が使われて省力化に役立っています。

接種作業も手作業で行っておりましたが、昭和40年代の初めに
1本用の接種機が開発され、その後4本式の接種機、平成2年頃
には16本用接種機が開発されました。菌掻き作業も当然のこと
手作業で行われていました。昭和40年代の中頃に羽根式、
エアー式の菌掻機が開発されました。栽培するきのこの種類に
よって羽根の形状は異なりますが、機械本体は同一の物で対応
出来ます。

昭和50年代の終わりには菌掻機の関連機器として、キャップ取りクリーナー加水機を組み合わせてライン化した自動菌掻機ラインが開発されました。

培地の殺菌は人工栽培が始まった当初から蒸気で行っていました。現在使われている蒸気殺菌釜は、常圧釜高圧釜に大別されます。原理的には現在の釜と昔の釜とは同じです。昭和40年代のオイルショックを境にして燃料の消費の少ない高圧釜へと移ってきました。